『ダン・タイ・ソンへの期待』 (2006/10/06掲載)

私事から始めます。

クラシック音楽が好きなのですが、聴き始めた頃、正直ピアノ音楽はそれほど好きではありませんでした。工業製品とも言われるピアノは音が人工的に感じられて、今ひとつ感情移入がしにくいという印象だったのです。吹奏楽部員だったこともあるのか、どちらかというと管や弦のように息遣いや腕の筋肉の動きが直接楽器に伝わる楽器の音が好きでした。

いつの間にか一世代も昔になる東京での学生時代、いくつものピアノのコンサートに行きました。途中で気持ちよく居眠りしてしまうことも多かったのですが、二人のピアニストの演奏が宝物のようにいまだに心に残っています。

ひとりはまだ三十代前半だったダニエル・バレンボイム。イギリス室内管弦楽団を弾き振りしてのオールモーツァルトプログラムは、苦手なモーツァルトを初めて居眠りせずに聴き通したことでも個人的に画期的でしたが、なにより明るく楽しげな演奏に圧倒されました。とにかくピアノを弾くことが好きでしょうがないという感じ。交響曲とピアノ協奏曲を2曲ずつという盛り沢山のプログラムだったのですが、ピアノソロでのアンコールを5曲も弾いたんですよ。

もうひとりはルーマニアのラドゥ・ルプー。月並みな表現になるのが残念ですが、初めの一音を聞いた瞬間にドキッとしました。繊細という言葉しか思い浮かばないその音は、ピアノが決して誰が弾いても同じ音がする工業製品ではなくて、弾き手の精神のあり方をも伝える精妙な楽器であることを初めて教えてくれるものでした。純粋に「音楽」だけが立ち上がる、夢見心地のかけがえのない時間でした。

音楽の楽しみ方は人それぞれですし、正しい聴き方、感じ方があるわけでもありません。クラシックなんて堅苦しくてとか、難しくてと敬遠する人が多いのも理解できます。それでも、クラシックに限らず、一生心に残る喜びを与えてくれることもあるのが芸術というものです。そして聴き手にとっては、深い感興を得るのに別に予備知識など必要ないのです。初めてのクラシックのコンサートで初めて聴いた曲に大きな感動を覚えることはよくあることですから。

間近に迫ったダン・タイ・ソンのピアノリサイタルは、多くの人に忘れられない印象を残してくれることでしょう。ショパン・コンクールの優勝者だからではなく、多くの音楽家から「ほんものの音楽家」と認められ愛されている故に。あまり耳慣れないチャイコフスキーとラフマニノフの演奏曲目も、先入観なく音楽を聴く助けになるように思います。

なお、前記のふたりの内、ダン・タイ・ソンはどちらかというとルプーに似たタイプのように思えます。しかしながら、ビデオで観た練習風景からはバレンボイムのようにピアノを弾くのが楽しくてしょうがないという風にも見えます。あるいはダン・タイ・ソンは他の誰でもなくダン・タイ・ソンだったということになるのでしょうか。答えが出るのは九日午後二時。チケットまだあります。  

■日本映画の黄金時代
昭和三十年代前半は日本映画の全盛期でした。映画館への入場者は現在の十倍、ピークの三十三年には十一億二七〇〇万人を記録し、全ての日本人が年間十二回以上映画館に足を運んだ計算になります。黄金時代を担った“映画スター”、石原裕次郎、中村錦之介、勝新太郎、鶴田浩二の主演作が勢揃いして、十一月四日と五日「昭和名画座VOL.4」を開催します。ビデオ化されていない作品も多いので要チェック。入場料は四本まとめて五百円、前売り券好評発売中です。(陽)